占いは一体何のためにあるのか

占術とか悟りとかこんな誰得マニアックブログを書いてるにあたり、ただ思うことを書いてます。
今日は表題の件について。昨年の6月くらいに下書きした記事なんですけど、掘り起こして続きを書いてみます。

 

私は、占いとかスピリチュアルとか、心とか、潜在意識とか、目に見えない不思議なことが好きです。

なくせに、

実は、そういうものに懐疑的な自分も常にどこかにいたりいます。笑

 

なので、占術をやっているくせに、一方で「ほんとにそうなのかな?」と疑っているところもあったりなかったり。笑

 

だから、引き寄せの法則や悟り系の記事でも書きましたが、

そういったスピリチュアルなものが胡散臭いとか、曖昧で嫌いとか、そういう風に思う人の気持ちもわりとわからなくもないです。笑

 

でも、色々研究してきて思ったことは

 

結局、人は、自分が「みたいものしかみえない」わけなので、

 

「そんなのウソだ!」

「信じない!」

 

と思えば、やはり、そのように展開されるわけで、

 

「ほうら、やっぱりね。嘘っぱちだったじゃないか」

 

と言われても、自分でそのように世界を展開してるから至極当たり前というか。

何の説得力にもならないなぁ…と感じてきました。笑

 

「やばい」と拒絶すれば、ただ単に、それは、その人にとって、それは本当に「やばいもの」となるだけです。

 

別にスピ系や占いに限らず、何かや誰かに対して声高に批判や否定を発信していたり、炎上させたりというのは、何のためにそれをしているんだろう?という感じなのですが、

自分に何かされたときや、どうしても納得できないとか、そういう気持ちになるのはわからなくもないです。でも、自分も含めて言えるのは、

結局は、自分の正当性を誇示したいという、自我の満足のためなんだよなぁ。と思う。

 

自分が信じていないなら、それはその人のなかで、(信じていないもの・逆に信じてるなら信じているものが)事実なんだから、もうそれでいいじゃん。と。笑

わざわざ、人に自分の信念や考えを押し付ける必要は全くナッシブルなわけで。

 

「みんなちがって、みんないい」

って、金子みすずさんも言ってたやん。笑

 

まぁ人の心情や、社会的モラルに絡むことはものすごくデリケートなこともありますが。

 

でも、こういった批判や中傷などは、自我(エゴ)が巧妙に絡んできてる人間のデフォルト作用のようなので、仕方がないですが、

激しい拒絶や、怒りを強く感じるものほど、その裏側にあるものを慎重にみていくと、結構色んなことに気づけて面白いことに気付いた昨今。笑

 

話を少し戻しまして

 

「信じたくないものは信じない」

 

でもそれは逆も然りで、

 

めちゃめちゃ信じれば、もうその人のなかで真実になる可能性もあるわけで。

 

なので、スピ系が新興宗教などに利用されるのも頷けます。

だから、いくら人が、法則を使った成功体験や、禅僧が説教を聞いても、

 

それを議論に持ち込むのは

 

何の意味もないような。。。気がする。笑

 

まぁ信じても信じなくても、自分に良さげなものと判断すれば、そこだけ都合よく信じてみちゃう☆

ってのも、ぶっちゃけ、ありだと思う。笑

 

しかし、ここで湧き出される疑問。

 

「信じたものが、その人にとっての現実となる」というものにおける

 

ポジティブな作用はいいとして

 

ネガティブな作用だったときの、

 

「100歩譲って、それ(占いや引き寄せなどの法則)が本当だとしても、じゃあこの何十万人に1人の確率で起こった災いは、私が引き寄せたっていうの?!」

「私は不幸になりたいと信じたわけじゃないわ!」

 

という意見。

私も昔、同じことを思ったことがあります。

 

常に↑のような疑問に対して、法則は説明できてない、と。

 

そして、これに対して、占い師は言います。

 

「起こるべくして、起こったのです」

な・・

 

なんだと・・・・

それじゃあ、知っていても、どうにもならないの?!

と。

なんか最近、色々な分野で横断的に研究してて思うのは、

 

宿命みたいなのは決まっているけど、その中で運命と言われるようなものは、自分である程度の範囲は変えていける

みたいな見解です。

あわせて読みたい
出生図(命式・命盤)の意味するところ 今回は、命術(出生図)でわかることから、悟りやスピっぽい話を絡めた考察記事です。

ここでもちょっと言及したけど、
おおまかなストーリーは、生まれる前に大体決めてきたけど、それの細かい順番とかそういうのは自分である程度決めている感。
感、というのはそんな気がするだけで実際はわからないので「感」。笑

 

その変えていける運命ってのも決まってたんだよ、

とか言われたら、

そうなんだwという感じなので、この辺は見解の差異はありますが。笑

 

最初からおおまかなことを自分で決めてきたのなら、まぁ文句は言えないよな、と思う訳でもありまして。

悟り的な話になれば、もうもがくのを辞める。ということで見えてくるのだけれど。

 

結局、

起こるべきことは起こるし、起こらないことは起こらない。

だから、自分の力でどうにもなることもあるけど、どうにもならないこともある

 

っていう。笑

調べたり、研究したり、考えに考えて、考え抜いた結果、ぐるっと回って結局、

至ってシンプルで当たり前のような見解になってしまったわけで。笑

 

要は人生、そんな力まなくて良いのでは。っていうことだと思う。

 

ここで占いの話に戻りますけど、

 

東洋占術を勉強していると、結構厳しいことばっかだったりするので、

この宿命論と自由意志のところでドツボにハマって迷宮に陥ったこともあったんですけど、

宿命というものはありつつも、その中で、自分の裁量で選択できる(みたいものをみる)ものも多いにありそう。

 

というのが今のところの自分の見解です。

 

この「見たいものをみる」というのは、宿命云々にかかわらず、

人の「幸福感」にかかわってくるような気がする。

 

んで、この持って生まれた特有の性質や、個性、癖ってのがわかるのが

占いによるところ、特に命術でわかるんじゃないかなと思う。

インド占星術や紫微斗数でいうところの因果、ってやつですね。多分。

 

このように「どうにかしたい!」のが、人間のうまれついた性、自我(エゴ)の習性なので、

そこんところのアプローチを会得した人(つまり、エゴの正体を見破った人たち)は、占いって必要ないんじゃないかな、と思ったりします。

 

「占い」は人によって捉え方が様々です。

 

だから「占い」が何のためにあるのかは、それを使う人や利用する人がそれぞれどのような価値判断を与えても別に良いような気がします。

自分は占術に触れていると、人と宇宙は、大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)という関係なだけあって、星の力の影響って結構あるんだなぁというのは感じますけどね。

個人的には、「占い」は、みんながそれぞれ自分で自由に有効活用できるようになると良いなぁと思ってます。

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